東京高等裁判所 昭和54年(行ケ)4号 判決
一 請求の原因1ないし3の事実については当事者間に争いがない。
二 そこで、審決を取消すべき事由の存否について検討する。
(本願発明と各引用例の記載内容)
1 成立に争いのない甲第三号証の二(昭和五三年二月二四日付手続補正書によつて補正された本願発明の明細書、以下単に「本願発明の明細書」という。)によれば、本願発明の明細書の「発明の詳細なる説明」には、「従来、半導体技術分野においては、シリコン酸化物皮膜は拡散マスクとして用いられているが、拡散工程終了後半導体装置の表面上にこれを残すことは、P―N接合の電気的特性に有害であつて、電極取付前にこれを半導体表面から完全に除去することが必要であると考えられて」(二頁一一行ないし一六行)いたところ、「本発明は、このような技術常識を根底から覆し、従来有害とされていたシリコン酸化物皮膜により半導体表面を実質的に全体にわたつて被覆し、かつ、P型、N型領域の一方又は両方の接触部において該シリコン酸化物皮膜に設けた穴を通じて電気接続をすることにより」(二頁下から二行ないし三頁四行)、「比較的高温においても、絶縁物質の変化又は半導体表面の特性の劣化を生ずることなしに電気接続がなされ、また、シリコン酸化物から成る絶縁物質が、半導体との界面において機械的にも電気的にも安定性を与えるため、半導体表面の汚染が防止され、電気的特性の劣化が防止され、もつて、半導体表面の保護を図ることができる。」(二頁三行ないし一〇行)との記載の存することが認められる。
2 一方、成立に争いのない甲第四号証の二(CONTROLENGINEERING一九五八年二月号――第一引用例)によれば、第一引用例の三一頁の図示には、薄板一主面上にP型、N型領域を有する単一の結晶半導体薄板より成り、前記領域間のP―N接合が前記一主面に終り、光抵抗材料(絶縁物質)が前記一主面を実質的に全体にわたつて被覆し、かつ、P型、N型領域の接触部が光抵抗材料によつて覆われずに露出され、電気的導体(アルミニウム・リード)が前記接触部に接続され、前記光抵抗材料(絶縁物質)上に密接して延びている構成の半導体装置が明示され、かつ、その説明として、「多分、この製作工程のうちで最も重要な部分は、リードをアルミニウムの蒸着によつてプリントすることであろう。これをなすために、まず、光抵抗材料の被覆がトランジスタの上におかれ、エミツタ及びベース接点のすぐ上の領域のみ露出させる。時には、接触を確実ならしめるため、更に金の層がこれらの領域に電解によりおかれる。………適所を露出したマスクをすることによりセラミツク板上のプリント配線を台座の上の接点と接続するアルミニウム・リードの真空蒸着をすることができる。これらのリードは直径〇・〇〇〇六インチのワイヤーに相当する電導性をもつ。光抵抗材料は、蒸着されたリードをゲルマニウムの表面から絶縁するだけでなく、その表面を回路全体又は回路の組合せが密封されうるまで汚染から保護する。光抵抗材料の使用は、トランジスタに影響を与えないようである。そして、その材料により覆われた各ユニツトには、数日間にわたり特性の変化は何もみられなかつた。」(三一頁右欄一三行ないし三二頁七行)との記載の存することが認められる。
第一引用例における右の記述によれば、第一引用例の光抵抗材料による皮膜は、回路を構成するための電気的相互接続手段であるリードをアルミニウムの真空蒸着によつて形成するために、被着されるものではあるが、その皮膜は、真空蒸着されたリードを半導体表面から絶縁するだけでなく、その半導体装置(トランジスタ)を含んで一体化された回路の全体がハーメテイツク・シールされるまでの間半導体表面を汚染から保護し、トランジスタに悪影響を及ぼすことなく数日間にわたつてその特性の変化を生じさせないという作用効果を有するものと認められる。原告は、この点、第一引用例の半導体装置における皮膜の目的は、小さな電極のための穴の正確な位置ぎめをすること及び製作されたトランジスタをプリント回路板の穴に挿入し一体化することにある旨主張するが、第一引用例の前認定の記載内容に徴しても、皮膜の目的は、直接には、皮膜自体や半導体装置に対して悪影響を及ぼすことなく、一体化された部品間の電気接続のための導電物質を真空蒸着によつて形成するにあることは明らかであり、また、その光抵抗材料からなる皮膜が半導体表面を汚染から保護するものであることも明白である。この点の原告の主張はにわかに採用できない。なお、半導体の表面保護の効果に関して、原告は、第一引用例における光抵抗材料による皮膜は、製造工程中の一時的な保護であるから、本願発明におけるシリコン酸化物皮膜による恒久的な保護とは意味を異にすると主張するが、前認定のとおり第一引用例の半導体装置においても光抵抗材料からなる皮膜によつて「特性の変化」はみられなかつたと記載されているところ、そこで特性が変化しないということは、結局、光抵抗材料の皮膜と半導体との界面に機械的及び電気的特性の安定がもたらされていることに他ならないと理解される。したがつて、ある期間にわたつて絶縁物質から成る皮膜と半導体との界面に機械的及び電気的特性の安定をもたらし、かつ、半導体表面の汚染から生ずる装置の特性の変化を防ぐという基本的保護作用は、第一引用例における光抵抗材料から成る皮膜と本願発明におけるシリコン酸化物皮膜とに共通することであり、保護の期間の長短は両者の作用を考える場合の本質的な差異とみることはできない。
3 更に、成立に争いのない甲第五号証(ドイツ特許第九六九四六五号明細書――第二引用例)によれば、第二引用例には、急峻なP―N接合を有する半導体素子における従来からの解決すべき課題とその改善手段とに関して、次の記載の存することが認められる。すなわち、急峻なP―N接合を有する半導体表面が十分な絶縁を有しないことから、湿気による上層表面導通によつて接合が橋絡され、これによつて、接合型トランジスタの特性の劣化が生ずるので、これを防止するために、従来、上層に電気絶縁性で防湿性のエナメルあるいはろうを被覆することやアラルダイトのような合成物質の硬質保護層による被覆、更には、電気絶縁性の可塑性又は重合性の合成物質内にトランジスタを押し込む方法などが行われたが、いずれも防湿性や多数回使用による耐温性の喪失などの欠陥があつたところ、第二引用例記載の発明は、右の欠陥を改善すべく、「電気絶縁性と防湿性を有するとともに、接着力によつて半導体表面上に付着する無機物質、特に酸化物、たとえば、石英(Quarz)から成る硬質の保護層で、半導体表面を、少なくとも急峻な接合に沿つて被覆することにより、漏洩電流に対する完全な表面の絶縁が得られた。絶縁層は、たとえば高真空中で蒸着され、したがつて、それは電気絶縁性と同時に防湿性を有するほうろう質の被覆を形成する。」(一頁右欄三三行ないし二頁左欄一五行)ことにしたこと、更に、第二引用例の第1図に示された接合型トランジスタの説明として、「半導体結晶の表面には、P層を完全に覆う電気的絶縁性の良い純粋石英(Quarz)のほうろう層4を設ける。このように構成した半導体素子は、場合により更に別の外側ケースを必要としない。………別の方法として、半導体素子全体の表面に石英(Quarz)をまぶし、したがつて、ほうろう層によつて包むこともできる。」(二頁左欄三四行ないし四九行)との記載が認められる。
この点、原告は、右にみた第二引用例の「石英のほうろう層」に関して、「石英」は組成上はシリコン酸化物ではあるが、非常に密度の高い結晶体をいうものであるから、本願発明において用いられる非結晶性のシリコン酸化物とは、その特性において異なり、かつ、第二引用例記載の発明が出願された当時の技術水準として、このような石英を半導体表面に蒸着することは不可能であつた旨主張するので、その点を検討する。
前認定のとおり第二引用例における絶縁層は、「高真空中で蒸着され、したがつて、それは電気絶縁性と同時に防湿性を有するほうろう質の被覆を形成する。」とされ、かつ、成立に争いのない乙第七号証の一ないし三、五ないし七及び同第八号証の一、二によると、ほうろうとは、一般には、一〇〇〇度C以内で溶けるガラス質のうわぐすりを意味し、うわぐすりは、陶磁器の素地に施して、気密、水密にする物質であつて、性質からみてガラスの一種であり、素地の耐火度や膨張率によつて、うわぐすりの組成も複雑であること、ガラスは、融点以上に加熱した溶融液体を適当に急冷して、結晶させずに、等方性無定形物質に固化したものであり、ガラス状態ともいうこと、二酸化シリコンだけでもガラス状態になり、これから石英ガラス(溶融石英)を得ること、二酸化シリコンだけから成るガラスを、ドイツ語で「Quartglas」(石英ガラス)とよぶこと、ドイツ語の「Quarz」は、一般に化合物名である「シリカ」、「二酸化シリコン」と同義のものとして用いられていることが認められる。右認定の各事実に徴すると、第二引用例において用いられている「Quarz」の語は、石英ガラスと同様に非結晶性のものと解するのが相当である。したがつて、本願発明におけるシリコン酸化物皮膜が、たとえ原告主張のとおり非結晶性のものであるとしても、それと第二引用例に記載された「石英のほうろう層」との間に相違があるとみることはできない。したがつて、当業者が、第二引用例における「石英のほうろう層」を前記の如く理解するのに格別の困難があつたとは考えられない。
更に、原告は、第二引用例に記載されているのは、半導体装置の表面のP―N接合部分だけを石英で覆うことによつて湿気による漏洩電流に対する絶縁を得るものであるから、第二引用例には、本願発明のようにシリコン酸化物で半導体の一主面の実質的全体を覆うことによつて「皮膜と半導体との界面に大きな電気的特性の安定をもたらし、半導体表面の汚染から生ずる装置の特性の変化及び使用寿命の低下を防ぎ、半導体表面の恒久的な保護を可能ならしめる。」という作用効果は何ら示唆されていないと主張する。しかしながら、湿気による漏洩電流に対する絶縁は、それ自体、半導体と皮膜との界面における導電度という電気的特性の安定化にほかならないし、かつ、湿気の侵入の防止は、湿気を含む雰囲気全体から半導体表面を隔絶することによつてもたらされることも事理上明白である。そして、第二引用例には、前認定のとおり、P―N接合部分のみならず、半導体装置の表面の実質的全体を覆うこと及び「場合により別の外側ケースを必要としない」との記載があるところ、そこにいう「外側ケース」とはいわゆるハーメテイツク・シールのことと解され、かつ、それはひとり湿気による漏洩電流の防止にとどまらず、汚染一般による特性劣化の防止を目的としたものと認められる(成立に争いのない甲第一二号証の三)。
第二引用例における「別の外側ケースを必要としない」との記載や従来のものの欠点に関する「電気絶縁性の可塑性又は重合性の合成物質内にトランジスタを押し込む公知の方法においても、多数回使用した後には、前記合成物質が耐湿性を失うことがあることがわかつた。」(一頁右欄二一行ないし二六行)との記載を考え併せると、第二引用例の保護層も、半導体装置の通常の作動下において実用上合理的な長い期間の保護作用を期待されるもの、すなわち原告の主張する「恒久的な」保護作用を有するものと推認することができる。
したがつて、第二引用例には、半導体表面の恒久的な保護作用について本願発明の有する作用効果と特段に差異のないものが十分に示唆されているとみるべきである。この点の原告の主張は採用できない。
(取消事由(1)(2)について)
1 原告は、本願発明の構成について、第一引用例に記載された光抵抗材料に代えてシリコン酸化物を用いることが、当業者にとつて容易に推考できるとした審決の判断は誤りであると主張する。
しかしながら、第一引用例及び第二引用例における前記認定のとおりの記載内容を総合すると、第二引用例における「石英のほうろう層」は、電気絶縁性と半導体表面の保護作用とに関して、各種合成物質に勝るとも劣らないものであることが十分に理解でき、かつ、これが第一引用例の光抵抗材料皮膜の目的及び作用効果にとつても適当なものであることが明らかである。また、成立に争いのない乙第七号証の四によると、ガラスや水晶板などが金属などを真空蒸着するための基板として普通に用いられていることも明白である。これらのことに徴しても、第一引用例における光抵抗材料皮膜の代りに第二引用例に記載された「石英のほうろう層」を用いることは当業者にとつて容易に想到できたことというべきである。この点、原告は、本願発明のシリコン酸化物皮膜が有する作用効果についての知見ないし示唆があつてはじめて、第一引用例と第二引用例との組合せを考えることが可能になるのに、両引用例には全くそのような組合せを示唆するところがない旨主張する。しかしながら、第一引用例及び第二引用例における半導体装置の構成ならびに目的、作用効果などに関する前認定の記載内容や真空蒸着の基板に関する前記の技術常識を併せ考えると、両引用例を組合せて考えることに格別の困難があるとは到底認められない。
更に、原告は、本願発明の出願についての優先権主張日当時の技術常識ないし技術慣行として半導体装置の製造にあたり不純物拡散用マスクとして用いられたシリコン酸化物皮膜はその残置がP―N接合の電気的特性にとつて好ましくないため、電極取付前に完全に除去すべきものとされており、また、不純物拡散用マスクでない一般のシリコン酸化物自体も、半導体装置の表面に残置することは望ましくないと考えられていた旨主張し、本願発明の明細書にはこれに沿う旨の記載があることはすでに認定したとおりであるが、拡散用マスクとしてこれまで使用されてきた不純物を大量に含むおそれのあるものと本願発明のように拡散工程の終了後に絶縁及び表面保護のために特に新たに形成されるものとを同列に論ずることはできず、また、絶縁と表面保護という一定の目的を達成すべく適当な配慮のもとに形成されたシリコン酸化物皮膜自体について、当業者が、これを有害視していた事実を認めうるに足りる十分な証拠はない。かえつて、前認定のとおり、第二引用例には、電気絶縁性のよい石英のほうろう層により半導体装置を覆うことによつて湿気の侵入を防止するなど、湿気を含む雰囲気全体から半導体表面を保護し、しかも、半導体と皮膜との界面における導電度という電気的特性の安定も期待できることが明示されている以上、第二引用例に接した当業者としては、第一引用例における光抵抗材料に代えてシリコン酸化物を用いることを考えることはきわめて自然のことというべきである。このように、第二引用例の記載内容に照らしてみるかぎり、原告がシリコン酸化物に関する技術常識であると主張する認識は、本願発明の出願についての優先権主張日当時において支配的なものであつたとは認められない。
したがつて、原告のこの点に関する主張を参酌しても、第一引用例における光抵抗材料皮膜の代りに第二引用例の「石英のほうろう層」を用いることが容易に想到できるとする前記判断を覆えすことはできない。原告の取消事由(2)の主張は採用できない。
2 原告は、審決が本願発明の奏する重要な作用効果を看過した旨主張するが、原告の主張する作用効果は、いずれも、第二引用例に記載された「石英のほうろう層」を第一引用例に記載された半導体装置における光抵抗材料皮膜の代りに用いるにあたつて、たやすく予測できる程度のものにすぎない。すなわち、第二引用例の「石英のほうろう層」が半導体表面に対する恒久的保護作用を有することは前叙のとおりであり、その作用は第一引用例のものにおける光抵抗材料皮膜の代りに用いたときにも当然に生ずるはずのものであり、また、前掲乙第七号証の五及び六によれば、シリコン酸化物は高い溶融温度(一七〇〇度C)を有し、物質的、化学的に安定ないし不活性であることがうかがわれるから、第一引用例のものにおける光抵抗材料皮膜の代りに用いた第二引用例の「石英のほうろう層」が比較的高温(原告のいう三〇〇度ないし四〇〇度C)における導電物質の真空蒸着を可能にするであろうことは、きわめて容易に予想しうるところである。したがつて、審決が本願発明の奏する格別の作用効果を看過した旨の取消事由(1)の主張も理由がない。
以上のとおりであるから、本願発明は各引用例の記載から当業者が容易に実施しうるものとした審決の判断は、正当であり、審決に違法の点はない。
三 よつて、本件審決の違法を理由にその取消を求める原告の本訴請求は、これを失当として棄却することとする。
〔編註その一〕 本願発明に関する事項は左のとおりである。
1 特許庁における手続の経緯
原告は、昭和三五年二月六日、一九五九年(昭和三四年)二月六日及び同月一二日のアメリカ合衆国における特許出願に基づく優先権を主張して、名称を「半導体装置」(当初は、「小型化電気回路及びその製作方法」)とする発明について特許出願(特願昭三五―三七四五号)をし、昭和三九年一月三〇日、右特許出願からの分割出願として、本件特許出願(特願昭三九―四六八七号)をしたところ、昭和四一年一一月一八日、拒絶査定を受けた。そこで、原告は、昭和四二年三月六日、抗告審判を請求し、昭和四二年審判第一二七八号事件として審理された結果、昭和四三年二月一七日、「本件抗告審判の請求は成り立たない。」との審決がされ、その謄本は、昭和四三年三月二三日、原告に送達された。そこで、原告は、昭和四三年七月二〇日、東京高等裁判所に対し右審決の取消請求訴訟を提起し、昭和四三年(行ケ)第九一号事件として審理され、昭和五一年二月五日、特許庁がした前記審決を取消す旨の判決があり、その判決が確定した。そこで、特許庁において昭和四二年審判第一二七八号事件として更に審理された結果、昭和五三年九月五日、再び「本件抗告審判の請求は成り立たない。」との本件審決がされ、その謄本は、昭和五三年九月二〇日、原告に送達された。
なお、原告のため出訴期間として三か月が附加された。
2 本願発明の要旨
「薄板一主面上にP型、N型領域を有する単一の結晶半導体薄板より成り、上記領域間のP―N接合が上記一主面に終り、シリコン酸化物より成る絶縁物質が上記一主面を実質的に全体にわたつて被覆し、かつ、上記P型、N型領域の少なくとも一方の接触部が前記絶縁物質により覆われずに露出され、電気的導体が上記接触部に接続され上記絶縁物質上に密接して延びていることを特徴とする半導体装置。」
(別紙図面(一)参照。)
〔編註その二〕 本件に関する図面は左のとおりである。
別紙図面 (一)
<省略>
別紙図面 (二)
<省略>